看取りのごはんと向き合うということ

こんにちは!にゃあこです。
ここでは、
看取りの時間にいる猫の「食事」と、
そのそばにいる飼い主の心のあり方について、
少し踏み込んでお話しします。
病気や年齢が進んで、
「もう長くないかもしれない」と感じる頃。
多くの飼い主さんが、
「食べてくれない」という現実と向き合うことになります。
そこには、正解といえるひとつの答えはありません。
だからこそ、何が良かったのか、何を選ぶべきだったのか、自分を責めるほど悩んでしまうテーマでもあります。
「どうするのが正解?」が
あなたを追い詰めてしまうとき

猫がごはんを口にしなくなると、
頭の中は一気に「対策」でいっぱいになります。
・今のフードを見直した方がいいのかな
・もっとおいしいものに変えた方がいいのかな
・強制給餌を始めるべき?
・流動食にしたら楽になる?
・鼻カテーテルや胃ろう(栄養チューブ)を選んだ方がいい?
ネットで調べると、
どの選択にも「良かった」という声と「後悔した」という声が
両方出てきます。
獣医師に相談しても、
「こうしましょう」ときっぱり決めてもらえることもあれば、
「その子の性格や、あなたの価値観にもよりますね」と、最終的な選択をあなたに委ねられることもあります。
誰かに「これが正しい」と背中を押してほしいのに、はっきりした答えは見つからない。
そうしているうちに、
気づけば一日中、頭のどこかで
「どの選択が一番、この子のためなんだろう?」
と考え続けて、心も体もすり減っていってしまいます。
まず知っておきたい「体の仕組み」
弱った猫は、自然と「食べなくなる」

ここで、少しだけ冷静な話をします。
看取り期、あるいは介護期と呼ばれる時期の猫は、病気の進行や老化によって、
体がゆっくりと「終わりの準備」を始めています。
その過程で、
こうした変化が起こると、
「食べたい」という欲求自体が小さくなっていきます。
つまり、
「介護期の猫は、食べなくなるもの」
これは冷たい言い方ではなく、からだの仕組みとして、
ある程度「自然な変化」だということです。
私自身も、そのことを頭では理解していませんでした。
食べなくなったあの子のために、
少しでも体にいいもの、
少しでも好みに合いそうなものを探して、
ドライ、ウェット、
パウチ、ペースト、スープタイプ、
通販で取り寄せた療法食や、
ヒューマングレードのおやつまで、
気づけば部屋の一角が、
ほとんど「フードの展示コーナー」みたいになっていました。
「これなら食べてくれるかもしれない」
その望みにすがるように、ひとつ試しては、また別のフードを開ける。
棚には、ほとんど減っていない袋や缶が並び、
空き箱だけが増えていく。
それでも食べない。
小さくなっていく体、
減っていく体重、
それに反比例して増えていく不安。
あの時間は、思い出しても胸がぎゅっとするくらい、しんどいものでした。
「食べない」の裏側にあるかもしれないこと

今、少し距離ができたところから振り返ると、
見えてくるものがあります。
あのときのあの子は、たぶん、
人間だって、高熱やひどい胃痛で苦しいとき、「しっかり栄養つけないと!」とお皿を口元に押し付けられたら、ありがたい気持ちより、つらさの方が大きいかもしれません。
猫も同じです。
「食べない」のではなく、
「食べられない」状態になっていることが、本当はとても多いのだと思います。
ここを知っておくと、「食べさせられなかった自分」を少しだけ許せるようになる人もいるかもしれません。
それでも、ときどき見せてくれる
「自分から食べる」という意思

不思議なことに、
どんなに弱っていても、
「もう、この子は何も食べないかもしれない」
と感じたその日に限って、ほんのひと口だけ、自分から口をつけることがありました。
強制給餌に私が疲れ切って、ふと力が抜けて、
「今日はもう、無理に食べさせなくていいや。
お皿に少しだけ置いておいて、
もし食べたかったら食べればいい」
そう思って、テーブルの隅に少しだけごはんを置いたとき。
しばらくしてふと見ると、
あの子がよろよろと近づいてきて、自分の意志で、
少しだけ、ちいさく舌を動かしていた。
「食べなきゃ」ではなく、
「今なら、少しだけ食べてもいいかな」
そんなふうに、その子のペースで選んだひと口。
その姿を見た瞬間、「あ、まだこの子は、生きるリズムを自分で持ってるんだ」
そう感じて、胸の奥が、少しだけふっと軽くなりました。
私が「させる」食事ではなく、
その子が「選ぶ」食事が、たしかにそこにあったからです。
「頑張らせよう」とするほど、
関係がきしんでしまうこともある

一方で、私の中の「この子に生きてほしい」という気持ちが、ときどき暴走してしまうこともありました。
注射器での強制給餌、口を開けさせて流し込むペースト、タオルでくるんで動けないようにして与える栄養。
どれも、「この子のため」と思ってやっていました。
でもある日、ごはんの準備をしようと台所に立ち、器や注射器の音をさせただけで、あの子の体が、わずかにこわばるのが見えました。
私が近づくと、
少しだけ身を引くような、
目線をそらすような、
そんな仕草をするようになったのです。
その瞬間、胸に浮かんだのは、
「あれ……もしかして今の私、
この子にとって“怖い人”になってる?」
という、鋭い痛みでした。
ずっと信頼してくれて、ずっと甘えてくれていたはずの存在なのに。
撫でてほしいときにはお腹を見せてくれて、一緒に眠るのが当たり前だったのに。
「ごはんの時間」が、
あの子にとって「嫌な時間」に変わりつつある。
それは、栄養を摂らせることよりも、もっと深いところで、私を大きく揺らしました。
「してあげるべきこと」から、
「してあげたいこと」へのシフト

そこから、
私は一度立ち止まって考え直しました。
それまではずっと、
この子のために私は何をしてあげるべきなんだろう。
と自分に問い続けていました。
「べき」という言葉には、どこか義務感や正解探しの匂いがつきまといます。
その問いは、確かに一生懸命さの証でもあるけれど、同時に、自分を追い詰めてしまう刃にもなり得る。
そこで、問いを少し変えてみました。
私は、この子に、何をしてあげたい?
正しさではなく、「自分の心が本当に望んでいること」に目を向けてみたのです。
すると、浮かんできたのは、意外なほどシンプルな願いでした。
それは、「一口でも多く食べさせる」こととは、
少し違う方向を向いていました。
私が選んだ答えは、世界にひとつの「この子との答え」

最終的に私が選んだのは、
「その子が嫌がることは、
できるだけ手放していこう」ということでした。
強制給餌の回数を減らし、
「どうしても嫌がる日は、無理をしない」と心に決める。
食べる量よりも、
そういう「栄養とは別のもの」を少しずつ、大事にしていきました。
正直に打ち明けると、
今でもこれが「医学的に正しい選択」だったかどうかは、わかりません。
もっと食べさせていれば、
もう少し長く一緒にいられたのかもしれない。
あのとき栄養チューブを選んでいたら、状況は違っていたのかもしれない。
そんな「もしも」は、今でも頭をよぎることがあります。
でも、あのときの私には、
そう思ってしまった。
その気持ちに、今の私はそっと寄り添ってあげたいと感じています。
「頑張る」と「手放す」
どちらを選んでも、間違いではない

看取りの時間にできることには、どうしても限りがあります。
だからこそ、
どちらの選択も、本来「間違い」ではありません。
ネットには、さまざまな体験談や意見があふれていますが、そのどれもが、「その人と、その子だけのストーリー」の中で選ばれた答えです。
一番長くそばで見てきたあなたが、悩んで、泣いて、考え抜いた末に選んだこと。
それこそが、その子にとっての「たったひとつの正解」になっていきます。
「もっとこうしていれば」と思う気持ちも、「あのとき頑張らせすぎたかもしれない」という後悔も、全部ひっくるめて、それがあなたとその子の「最後の時間」になります。
先住猫たまと過ごしたあの時間を、
今の私がどう受け取っているか

今でもふと、あの頃のことを思い出す瞬間があります。
空になった小さな器、
片付けられずに残ったフードの袋、窓際のいつもの定位置。
あのとき、別の選択肢を取る未来も、確かにあったのかもしれません。
でも、
その一つひとつは、
どんな選択をした世界線の私にも、きっと変わらずにあっただろうと思うのです。
だから、今の私は、こう感じています。
あのときの選択がどうであったとしても、たまと過ごしたあの看取りの時間は、たしかに「愛そのもの」だった、と。
そして、今まさに同じような時間を過ごしているあなたにも、どうか、そのことを心のどこかで信じていてほしいと思っています。
あなたが迷いながらも選んだ「ひとつひとつ」が、
その子にとっての、かけがえのない愛のかたちです。


